本格野球小説 Me And Mr.OCHIAI その2

Chapter2 センチメンタル・ヒロミツ

 落合博満は自宅に帰ると、スタジアムジャンパーを脱ぎ、セーターを脱ぎ、ズボンのベルトを緩めてそれも脱ぎ捨て、ステテコと肌着のシャツだけになって、広いリビングの真ん中に据えられた革張りのソファに腰を下ろした。

「あらお父ちゃん、おかえんなさい」妻の信子がキッチンから出てきた。

「ただいま」

「今日も『野球』?」信子がこちらに来ながら聞いた。

「そう、『野球』だよ」

信子は屈み込むと、博満が脱いだ洋服を手際よく回収し、またリビングを出ていった。そして部屋着を抱えて戻ってくると、ソファに沈み込んでいる博満に手渡した。

「ありがとう」

リビングの一丁目に鎮座している77型プラズマ液晶テレビーー「ヤマダ電機LAVI名古屋店」で信子が「この店で一番大きなテレビをちょうだい!」と言って買ってきたーーは、衛星放送のナイター中継を映し出していた。試合は序盤戦だった。

背番号をこちらに向け、マウンドに立っている先発投手は、高卒3年目の選手で今季の飛躍を期待する声が高かった。ワンアウト・ランナーなし。カウントノー・ワン。マウンド上の彼は、手にしていたロジンバックを静かに置くと、ワインド・アップの投球動作に入った。やや小さめな振りかぶりの動作から、左足をゆっくり持ち上げる。重心を徐々に後ろに移すと同時にボールを持った右腕をセンターへ、グローブをはめた左手を本塁に向かって広げ、彼は両翼を広げた鶴のような格好になる。次の瞬間、彼は上半身を一気に回転させるとともに、急激な重心移動を利用して右腕を鋭くしならせると、硬く皮の張った3本の指先から重さ約5オンスのボールをリリースした。

初速約146キロで放たれ、わずかに重力の影響を受けつつもほぼ一直線に飛翔する硬球を、18.44メートル先の左バッターボックスで待ち構えた打者は強振で捉えた。彼の握るバットのやや根元付近に、彼の予測よりわずかに0.05秒ほど早く衝突したボールは、鈍い打撃音の波紋をグラウンドに残して緩やかな放物線を描き、右翼内野席に吸い込まれた。

「これはファウルボール」実況アナウンサーが短く叫ぶ。

やれやれーー博満は、画面から目を離して首を振った。まったくひどい打ち方だ。トップの位置が浅さすぎるために、その後の動作すべてがワンテンポ早くなり、インパクトの瞬間には、彼の上体はまるで無防備な形で投手に向かって開ききっていた。おまけに踏み込んだ右足はまるで棒のように伸びきって硬い。

 「今日の◾️◾️投手ご覧になっていかがでしょうか」アナウンサーが解説者に振った。

「ええ、腕が振り切れてますしね、それでストレートが走ってますから。前回の登板の時よりか、いいんじゃないですか」

ーーふん。これで解説が務まるんだからいい加減なもんだーー博満は思う。確かに腕は振れている。最近の投手にしては、下半身もそれなりに使えている。しかし決定的な問題は、彼の右手首・肘・肩それぞれの高さだ。投げる本人は意外なほどに気がつかないものだが、この3点の相対位置が不適切ならば、投手の肘、肩には何倍もの負担がかかることになる。

「この投げ方じゃ2年で壊れるよ」博満は誰に言うとでもなくつぶやいた。

最近では誰もそういうことを教えないのだろうか。

マウンドの使い方だって実に危なっかしい。あれはただ高いところからボールを放るための丘ではない。これでは彼は膝も壊してしまうだろう。

最近では誰もそういうことを教えないのだろうか。

 

昔は違った。

 

1979年、25歳の博満がロッテオリオンズに入団し、中日に移籍するまでの8年間、それは野球がまだ手で触れることのできるような実体として存在する時代だったーーわかりやすく言えば、王、長嶋、張本、野村……そのような先達が残していった「野球」の香りがまだ球場のグラウンドに、ベンチに、ロッカールームにーーそして内野スタンド裏の便所にさえーー薄く漂っていたのだ。あの頃幾度となく対戦した西武の東尾修ーーあれにはしょっちゅうぶつけられたがーー、彼のマウンドの扱いは実に見事だった。それから阪急の山田久志、チームメイトであり大先輩の村田兆治……。皆マウンドというものを熟知していた。そして壊れない投手だった。そんな彼らは、皆しつこいほど時間をかけてマウンドの土をならしていたものだった。

それは打者である博満も同じだった。現役時代の博満は、打席に入るといつも同じ準備を行った。まず真っ先にやるのは、バッターボックスを示す、石灰で引かれた長方形の白線の端をスパイクでかき消すことだ。

博満は、バッターボックスとホームベースの置かれた直径26フィートの円形の中で、自分がどこに立つのかを極めて厳密に決め、細心の注意を払って実行した。それが狂えば、後に起こる事のすべてが狂ってしまうのだ。

そして博満は、白線を引くグラウンド係を絶対に信用しなかった。信じるのは、長年かけて自らの大脳後頭葉・視覚連合野に焼き付けてきた、各球場のバックスクリーン、そして投手が立つマウンドのピッチャープレートと自らの間の距離感覚だった。本拠地の川崎球場近鉄藤井寺球場西武球場、阪急西宮スタジアム大阪球場……そして後楽園球場。どの球場のそれも、博満は寝床の中で目をつぶってさえはっきりとイメージできた。その精密な感覚を狂わせかねない目障りな線ーーどれくらいの正確さで引かれたかもわからぬ線ーーは、さっさと消してしまうのだ。

ここからが本番だ。博満はバックスクリーンを見つめながら、脳裏のイメージと、網膜から送られる画像がぴったり重なる位置を探る。長辺約183センチのバッターボックス、その最後部のある一点が彼の定位置なのだ。そして、ここという場所を探り当てると、博満は投手達がマウンドでそうするのと全く同じように、その地面の土をスパイクでならしはじめる。彼の前を打った打者がつけた穴を綺麗に埋め、もう一度足場を築かなくてはならないのだ。前打者が下手な選手であればあるほど、掘り返された穴は不細工で、元に戻すのに骨が折れた。だから博満は、アンパイアが何度注意しようが、年上の捕手が大きな舌打ちをしようが構わず、熱心に打席の土を掘り、埋め、そして固め続けた。それこそが「野球」であり、また「野球」の世界で生き残るために欠かさざる営みなのだ。引退後にーー滅多にないことだがーー気まぐれで自宅のキッチンに立ったとき、どうしても気になり、スリッパで足元のフローリングを何度もこすったときには、さすがの信子も呆れていた。

 

……

回想の世界から博満が我に帰ると、77インチの液晶画面が映し出すゲームは、すでにイニングが代わっていた。イニングが代わっても、行われている事は変わり映えしなかった。まるで棒きれでも扱うようにバットが振られ、石つぶてのように生気を失ったボールが飛んだ。選手達は無邪気にそれを追い、走り回っていた。解説者はそんなものにしきりに理屈をつけては褒め、あるいは注文をつけていた。

博満はそれを聞きながら思った。ーーいよいよ「野球」の話ができる人間はあまり残っていない。博満は中日ドラゴンズでプレーしていたころ、同僚の愛甲猛宇野勝と、夜中まで打撃や野球について語り明かしたものだったーーそう宇野、あいつの遊撃守備は一級品だった。一塁を守っていた博満は、彼の送球を何回受けたかわからないほどだが、後にも先にも、あいつ以上に上品な球を送ってくる野手はいなかった。奴は俺より少し若かったが「野球」を知っていたな。

 

それが一体、どうしてこうなってしまったのだろう。

 

つづく

 ※本作はフィクションであり、登場する人物・組織等は実在のものと一切関係がありません。

第1章はこちら 

tomotaroohtako.hatenablog.com

 

 

参考文献(うろ覚え)

落合博満落合博満の超野球学 バッティングの理屈」ベースボール・マガジン社

落合信子「悪妻だから夫はのびる 男を奮い立たせる法」カッパ・ホームス