無神論者は葬儀を必要とするか

人間以外の動物はある意味で無神論者だが、普通そのような言い方をしないのは、動物と違い人間には言語があり、また思考の能力があるからで、思考というのはつまり言語を介した精神の在り方のことで、結局同じことを言っている。
人間が葬儀をするのは、単なる社会的習慣ではもちろんなく、遺体を単なるモノとみなすことができないから"でもなく"、他者の存在を自ら「のように」感じるメタファーがあるからで(動物に「残酷」という思考はない)、つまり思いっきり言語的な思考によっている。
ところで、動物も「怖がる」ということはする。怖がるというのは、端的に言って何らかの事物を死と結びつける、つまり死「のように」感じる精神の働きだが、だとすれば動物にもメタファーの能力はあり、つまり思考があるという事になり、僕の前提は間違っていたことになる。
動物の中にも怖がる能力があるものとないものがあって、猫や犬は怖がるが蚊は怖がらない(と考えられている)。人間は動物を殺すことに躊躇するのはその動物が怖がる能力がある(と人間が見做した)ときだ。虫にも恐怖があるのではないかと思ってしまった人は、文字通り蚊も殺せなくなるし、コンピューターが実は「怖がっている」ということがわかったら人間はコンピューターを壊せなくなる(というか、その時点でコンピューターは「壊す」ものではなく「殺す」ものになる)。
こういう動物を我々はしばしば「知的な動物(存在)」と呼ぶが、こういう場合の"知的"というのはつまり思考の能力を持っていることである。思考とは言葉を介した精神の在り方のことであった。よって、ある種の動物は言葉を持つ(と考えられている)
しかし、やはり猫も犬も葬儀をしないのは猫も犬も会話をしないのと同じように、言葉を持つ度合いが人間ほど高くないからだ(とりあえずここではそう規定しておく他ない)。とすれば「すべて、人間以外の動物は無神論者だ」と言うことがナンセンスなのは動物が言葉と思考を持たないからでは必ずしもなく、日本語では動物のことを「者」とは言わないからではもちろんなく、言葉や思考を持っているにしてもその度合いが人間ほどではないからだということになってしまうが、これほど決定的な隔たりが度合いの問題に帰してしまうことには釈然としないものがある。
ところで、完全な無神論者かつ唯物論者である人間は葬儀を必要とするのだろうか。自分が死んだら遺骨は海に撒いてほしいというのはよく聞くが、他の廃棄物と一緒に処分してほしいというのはあまり聞いたことがない。だけどそこを挙げてあなたはやはり唯物論者ではないではないかというのも、なぜか分からないが何かが違う気がする。

リベラルの宿命としての"自己批判"とアナキズム、ファシズム

・反五輪でも、反戦でも、ジェンダーに関わる主張でも、なんでもいいのだが何かしらいうときに、リベラルのーーあるいは進歩的な、また左翼的なといってもいいーー立場に立脚して倫理判断を行うとする。例えば、世界には食べ物を食べれない人々が何億人もいるのにフードロスが大量に出る五輪は最低だとか、五輪のためにホームレスを排除するのは社会的暴力じゃ無いか……とか、要するに”西側世界”においてある程度以上、いわゆるリベラルアーツ教育を施された人間にとってはお馴染みの倫理判断だ。
で、こうした倫理判断はほとんど必然的に「自己批判」を伴うことになるーーごく単純素朴な例で言えば、そうはいっても自分たちだってコンビニを日々使っているじゃないか、とか、あるいはもう少しややこしくなると、今自分が倫理的な根拠に基づいて他者を告発しているが、それ自体も実は被告発者の成しているそれと構造的には同じ「暴力」なのではないかといったものだーー。

・ともかく、そのような"気付き"と"改悛"という一連の「自己批判」の手続きは、しかし、おそらくどれだけそれを重ねていっても完了することはなく、むしろ永久なる自己批判を続けるこそが左翼思想、進歩主義のキモといっていいのではないだろうか。しかし、ここにはおそらく内ゲバ的なるものに至る回路が宿っている。思想的に原理的*1になろうとすればするだけ、自他に自己批判を求める度合いは増していくだろう。

・これに対して、アナキズム的なーー「-ism」よりもっと個人的に「アナーキーな」と言ったほうがいいかもしれないがーー立場は、有り体にいえば「オレサマ」主義なので、正義や正しさなんてものは問題にならない。五輪に反対するのは"俺が五輪が嫌いだから"だし、戦争に反対するのは、無辜の市民の命がたくさん奪われるからではなく"俺が嫌だから"でよい。マイノリティの運動も”権利”を要求する(生きさせろ)運動ではなく……なんといえばいいか、”居座る”とでもいうようなものになるだろう。

外山恒一は「アナキズムは(マジメにやってれば)必然的にファシズムに転化する」と書いている*2。僕には最初これがどういうことなのかわからなかったーーそして外山恒一の掲げるファシズムとはなんなのかもずっとわからなかったーーのだけど、要するにアナーキーな「オレサマ」を共同体レベルにまで拡大していくとファシズムになるということではないだろうか。

・左翼もファシズムも、原理的には独裁を否定しない(と理解している)。しかし、左翼の独裁は、理詰め(=「科学」(byマルクス))の自己批判、そしてそれによる純化*3に基づくが、ファシズムには良くも悪くもそれがない。アナーキーファシズムも、価値判断・倫理判断に理屈=科学は介在しない*4

・とはいえ、そこで寄って立つものが”オレサマ”*5では、ファシズムではなくアナキズムになってしまうので、必然、何かしら依り代的なものが要請されるわけで、それはあるいは天皇であり、あるいは「民族」の意識であるのかもしれないし、もっと別の何かなのかもしれないが。また、「民族」を持ち出すとやはり、それはナチズムとは違うのか?という問いに出くわすことにもなるだろう(外山恒一はナチズムはファシズムではないと言っている)。

スターリニズムファシズムどちらに対しても代名詞のように言われる「全体主義」とは何なのか。ーーというか、僕の疑問としてはむしろ、どちらも全体主義ならばいったいスターリニズムファシズムは何が違うのか、というのがあったわけだが、要するにどちらも独裁を敷くが、価値判断・倫理判断における言語的な理屈づけ≒自己批判の有無ということだと、今のところはそのように理解している。

*1:世間一般では「原理(主義)的」という言葉は「狂信的」もっというと「悪」と同義で使われることがあるがここではそうした意図は無い

*2:http://www.warewaredan.com/bouha.html

*3:最近僕はグリーンバーグ的な抽象表現主義の理論は、(CIAの息がかかっていたにも関わらず、というのがまた捻れていて面白いのだが)非常に左翼的だったのではないかと思ったりしている

*4:と規定すると、つまりファシズムは思想ではないーー信条ではあってもーーということになるわけだが……

*5:進歩主義的(≒左翼的)な”個人”ではないことに注意

「自首もできる」日本のコンビニ

・今日の夜起きた小田急線の刃物事件、逃走した犯人の確保があまりにも早かったので驚いていたら、杉並区内のコンビニで「自首」したとのこと。
改めて思うが、日本、少なくとも東京において、24時間営業のコンビニがもたらしている「治安維持」効果は交番と同じかそれ以上のものがあるだろう。なにせ、雨の日も風の日も早朝も深夜も変わらず明かりが灯っていて「まともな人間」(=店員さん)がいる、そんな施設が数百メートルおきに点在しているのである。

・決して、決してブラックジョークなどではなく、今や「お買い物から、お手洗い、公共料金の支払いから自首までできるコンビニ」となっている、僕はそう思った。東京においてコンビニを見つけることは、交番を探すより何十倍も簡単であることに異論の余地はないだろう。今回の事案にしても、もしコンビニがなければ彼はまだ街を彷徨っていたかもしれない。交番や警察署ではなく、コンビニに「出頭」した男の心情はなんとなくわかる気すらする……それは、コンビニは現代の「駆け込み寺」だからだ。

・よく「日本の神社の数はコンビニより多い」というふうに比較されることがあるけれど、現代日本でコンビニはまさに昔の神社やお寺と同じような役割を果たしているのだと思う。かつて人々が毎日欠かさず神社にお参りして1日の安寧を祈ったのと同じく、資本主義時代の日本で僕たちは、朝・昼・晩とコンビニに通うことで「今日1日生きていける」ことを確信する。

・これは決して大げさな表現ではない。サラリーマンなんかをやっていると、平日は昼休みになるとコンビニで昼食を買い(ときには店内ATMでお金をおろしたりもする)、0時ごろクタクタになって退勤するころには居酒屋以外の飲食店はもう閉まっているのでまたコンビニに入り、適当に食べるものを(ときには酒も)買ってから家に帰るというのが日常だったりするわけだ。文字通り生存を支えられているのである。
さらに、”緊急事態宣言”が常態化し、大多数の飲食店や小売店が20時で閉店している今、コンビニはいよいよもって最後の砦になりつつある。

・もちろん、このような「コンビニ様」が成立しているのは、まず第一義的にはシフトを組み昼夜お店を守っている店員さんたちのお陰であり、さらにその背後には各チェーン企業の高度に洗練された経営・管理システムがある。

・ここ十数年来、コンビニで外国人の店員さんを見ない日はないくらいだが、彼ら・彼女らもまた驚くほどに日本のドメスティックなコンビニ文化に従って「くれて」いる*1。僕個人の経験では、外国人の方を含めたコンビニの店員さんでいわゆる「おかしな人」に出くわしたことはほとんど皆無だ。

・僕はコンビニでアルバイトなどをしたことはないので、これはあくまで想像になるが、どこの職場にも一定数いる「おかしな人」*2は、コンビニでは"自然と"すぐに辞めていくようになっているのではないか。もしそうだとすれば、それは先述した巨大チェーン企業の高度に洗練されたシステムの一環にほかならないだろう。

・そうした細やかな安心・安全(!)の積み重ねが、見知らぬ街で、見慣れたチェーンの看板を掲げたコンビニを見つけたときの安心感を生んでいる。(比較して、落し物の届けなどで交番に出向く時はやはり「何をさせられるのだろう」という不安感があることは否定できない )

・最後に、「まともな人間」「おかしな人」「くれて」といった文言をわざわざ括弧でくくっている理由は、くどくど説明するまでもないと思うので省くが、わざわざくくっているということについては一応、念を押しておきたい。

おしまい

*1:そうした状況が未来永劫続く保証はどこにもない

*2:割と僕自身のことだったりする……

平成元年生まれのゆとりですがひとこと言わせてください

「歴史の終わり」に生まれて

のっけから私事で恐縮ですが、私は1989年生まれです。日本では63年間に及んだ昭和が終わり、平成の世が始まった年です(ちなみに、昭和の大歌手・美空ひばりさんもこの年52歳で亡くなっています)。

奇しくも世界においてはベルリンの壁が解放され、ソビエト連邦が崩壊し、冷戦体制に終止符が打たれ、とにかくいろいろなことが終わった、そういう年に私は生まれてしまったのです。

f:id:TomotaroOhtako:20210711231005j:plain

(画像:人事院ホームページ, CC BY 4.0 <https://creativecommons.org/licenses/by/4.0>, via Wikimedia Commons)

そんな平成元年生まれの私は、少年期から10代の終わり頃に至るまで、何かの書類に生年月日を書く度それを見た大人たちから「平成生まれか〜」と何回言われたかわかりません。

私はこの「平成生まれか〜」という言葉には、2つの意味が含まれていると感じます。

1つは「やれやれ、俺も歳をとったもんだ」という感慨です。そしてもう1つは「俺とお前は違う常識や価値観の持ち主なんだな」という感想あるいは確認です。

後者についてもう少し説明します。

昭和は、日本の歴史上最も長く続いた元号であり、またインパクトの大きい出来事があまりに多く詰まった時代でもありました。

太平洋戦争をはじめ、安保闘争連合赤軍事件、三億円事件東京五輪、高度成長、大阪万博オイルショックロッキード事件、そして日航機事故……などなど、平成生まれの私でさえすぐに列挙できるほどです。

そして、現行憲法が制定されたのも、自民党政権が誕生したのも、プロ野球のリーグが発足したのも、テレビ放送が始まったのも、新幹線が建設されたのも、みんな昭和のことでした。

乱暴にいえば、平成が始まってからも国民にとって精神の上での日本とは、すなわち「昭和」のことだったのです。それを考えると、大人たちにとって平成生まれなどというのは、ほとんど別世界からやってきた人間のように思えたとしても無理はないと思うのです。

「ゆとり」と私

もう1つ世代の話をすると、私はいわゆるゆとり世代に属しています。

ゆとり世代は、2002年〜2010年代初期に日本の学校で実施された通称「ゆとり教育」を受けた世代を指します。生まれた年でいうと1987年〜2004年生まれの範囲です。

このように、ひと口にゆとり世代といっても、生まれた年は17年間という長期に分布するので、その成長過程における社会的環境には大小の違いがあります。

例えば「ゆとり初期世代」の私がはじめてインターネットに触れたのは、小学校中学年の時でした。それに対し、2000年前後生まれの「ゆとり末期世代」は、物心つく頃には身の回りにインターネットが当たり前に存在し、少年・少女時代には、SNSスマートフォンなどほぼ現在と同様のネット世界があったデジタルネイティブです。

しかし、いずれにしてもゆとり教育、およびゆとり世代に対する世間の評判は必ずしもよいものではありませんでした。学力および体力の低下、打たれ弱さ、自主性の欠如……などなどが叫ばれ、いつしか「ゆとり」という言葉は(特にネット上では)愚鈍・軟弱・甘ったれの代名詞のようにさえなっていきました。

これについて、ゆとり世代である私の見解を示したいと思います。

まず学力に関していえば、私が通っていた東京郊外某市の公立中学校では、クラスメイトの多くが進学塾に通っており、学校の授業内容を先取りして学習しているのは当たり前でした。学年が上がるにつれて、私の周囲では誰それが模試で何位を獲ったとか、誰それが塾の特進クラスに入ったなどという話が盛んに交わされるようになりました。

また「円周率を3と教えている」などとも噂されたゆとり教育への危機感からか、総じて親たちの教育熱も高いように感じられました。

次に体力についていえば、やはり中学校ではほとんどの生徒が何らかの部活動に加入しており、その大半は体育会系の部でした。放課後の校庭や体育館では、毎日部員や顧問の大声が日没まで響き渡っていました。とりわけ、バドミントン部と剣道部は有無を言わせぬスパルタ指導で知られていましたし、その他の部の活動もかなり熱心でハードなものに見えました。

つまり、少なくとも私の見知った範囲において、ゆとり世代は「それほど『ゆとり』でもなかった」のです。

ところで、私自身の中学校生活はというと、私は絵を描くのが好きだったのですが、残念ながら美術部はありませんでした。楽器の演奏も好きだったので、吹奏楽部への入部も検討しましたが、吹奏楽部というのは文化系の皮を被った体育会系部活動なのだということを誰からともなく聞かされ、断念しました。

私はまた、3年生の半ばに至るまで塾にも通いませんでした。教室から解放された放課後にまで、わざわざまた別の教室に授業やテストを受けにゆくことに、私はどうしても意義を感じられなかったのです。

そういうわけで、私は委員会活動(整備委員長を3期連続で務めました)がある日を除いて、授業が終わるとすぐに帰宅し、昼寝やネットサーフィンばかりしていました。

私は、私の学校においては稀有な「ゆとりの模範生」であったといえるでしょう。

TOKYO2020と新国立競技場

さて、私たち平成元年生まれのキッズもついに三十路を迎えた2019年、平成は幕を閉じ、元号は令和と改められました。そしてその令和のスタートダッシュは、翌2020年の東京五輪で華々しく飾られるはずでした。

しかし何の因果か、およそ信じがたいほどの運の悪さにより、我が国にとって56年ぶりの自国開催となる夏季五輪は、100年に1度のパンデミックといわれる新型コロナウィルスの世界的流行にドンピシャのタイミングで見舞われることになったのでした。

思い返せば、今回の東京五輪を巡っては、メインスタジアムとして新たに建設される国立競技場(以下「新国立競技場」とします)のデザインコンペの段階からすったもんだがありましたが、あれは当初の決定通りザハ・ハディド氏の案を採用するべきでした。

ザハ氏による案は、まずその暴力的といってもいい巨大なスケールが議論を呼びました。流線型の屋根の高さは、旧競技場よりも20メートル以上高い約70メートルに達し、建物から伸びる通路が隣接する首都高とJRの線路を乗り越えるというのです。

また、公表された外観イメージは、曲線と曲面をいくつも組み合わせたフォルムと、金属ともガラスともつかないヌルヌルとした質感からなり、およそいかなる歴史や民族性との繋がりも見出せないものでした。

f:id:TomotaroOhtako:20210711230411j:plain

ザハ・ハディド氏による原案(10+1 website「新国立競技場──ザハ・ハディド案をめぐる諸問題」(https://www.10plus1.jp/monthly/2013/12/issue01.php)より引用)

このようなザハ案のスタジアムが、長年見慣れた神宮外苑の景観とはどう考えても調和せず、むしろそれを徹底的に破壊することは明白でした。

しかし、だからこそ造るべきだったのです。

そもそも、新国立競技場の建設の前提には、1964年(昭和39年)の東京五輪の「レガシー」である旧国立競技場(国立霞ヶ丘競技場陸上競技場)の解体がありました。

しばしば戦後復興と高度成長の象徴として登場する、赤いジャケットを着た日本選手団が行進した、円谷幸吉選手が走った、あの場所を消し去ると決めたのです。

この時点で、昭和レガシーの延長上たる現体制との決別という選択がなされのだと解釈することにそれほど無理はないでしょう。そして、ザハ氏によるプランはその選択を貫徹するにふさわしいものでした。

幻のザハ案と「ニュー・ノーマル」

明治45年(1912年)、青山練兵場の跡地に造営された神宮外苑には、国立競技場のほかに、明治維新を記憶するモニュメントである聖徳記念絵画館六大学野球の聖地とされる神宮球場などが立ち並び、いちょう並木の紅葉は長年人々に親しまれてきました。

もしザハ案のスタジアムが、公表されたデザインに忠実な形で建設されていたならば、そうした光景はあの人工的で無国籍かつ巨大なボリュームによって塗り潰され、おそらくはいびつで荒涼とした空間に変わり果てていたことでしょう。

そのようにあえて歴史と記憶の連続性を切断することこそ、旧国立競技場を解体し、最大3000億円超ともいわれる建築費を費やすに値する事業であり、また五輪というイベントでしか実現され得ない事業でした。

2021年現在もなお続くコロナ禍は、人々の生活や経済などにあらゆる面で変容をもたらし、それにより社会の新たな標準・常態である「ニュー・ノーマル」が到来するなどとも言われています。

私はコロナ禍以前からの五輪招致・開催反対派ですが、それでもなお今、東京で五輪を開催することに意義を見出すとするならば、それはザハ案のメインスタジアムを実現することの他にはないと考えていました。

それこそが昭和そして平成と手を切り、真に「ニュー・ノーマル」を創始することを可能にしたのではないでしょうか。

今後東京、いや日本で、あれほどラディカルな計画が実現されるチャンスは当分ないでしょう。返す返すも残念でなりません。

紆余曲折を経たメインスタジアムの建設計画は結局、近年飛ぶ鳥を落とす勢いで全国の公共施設や文化施設の案件を受注しまくっている日本人建築家の隈研吾氏(と大手ゼネコンの合同)による案に落ち着きました。鉄骨造の随所を木材で覆うことで「日本の建築が守り伝えてきた軒下の美」を表現し「神宮の杜と調和する」ことを目指したという隈氏の新国立競技場は、皮肉なまでにザハ案との対照をなしています。

f:id:TomotaroOhtako:20210711223033j:plain

2019年に竣工した隈研吾氏による新国立競技場(江戸村のとくぞう, CC BY-SA 4.0, via Wikimedia Commons)

常設のサブトラックがないことから国際レベルの陸上競技に使えず、コンサート用途としても現実的ではない国立競技場の、五輪閉幕後の使い道については議論があるようですが、歴史と決別するザハ案が幻となった今、最善な策はむしろ歴史に倣って「令和大仏」を納める大仏殿へと競技場を改装し、疫病鎮静と国家安寧祈願の場とすることでしょう。

本格野球小説 Me And Mr.OCHIAI その2

Chapter2 センチメンタル・ヒロミツ

 落合博満は自宅に帰ると、スタジアムジャンパーを脱ぎ、セーターを脱ぎ、ズボンのベルトを緩めてそれも脱ぎ捨て、ステテコと肌着のシャツだけになって、広いリビングの真ん中に据えられた革張りのソファに腰を下ろした。

「あらお父ちゃん、おかえんなさい」妻の信子がキッチンから出てきた。

「ただいま」

「今日も『野球』?」信子がこちらに来ながら聞いた。

「そう、『野球』だよ」

信子は屈み込むと、博満が脱いだ洋服を手際よく回収し、またリビングを出ていった。そして部屋着を抱えて戻ってくると、ソファに沈み込んでいる博満に手渡した。

「ありがとう」

リビングの一丁目に鎮座している77型プラズマ液晶テレビーー「ヤマダ電機LAVI名古屋店」で信子が「この店で一番大きなテレビをちょうだい!」と言って買ってきたーーは、衛星放送のナイター中継を映し出していた。試合は序盤戦だった。

背番号をこちらに向け、マウンドに立っている先発投手は、高卒3年目の選手で、今季の飛躍を期待する声が高かった。ワンアウト・ランナーなし。カウントノー・ワン。マウンド上の彼は、手にしていたロジンバックを静かに置くと、ワインド・アップの投球動作に入った。やや小さめな振りかぶりの動作から、左足をゆっくり持ち上げる。重心を徐々に後ろに移すと同時に、ボールを持った右腕をセンターへ、グローブをはめた左手を本塁に向かって広げ、彼は、両翼を広げた鶴のような格好になる。が、それも一瞬のこと、すかさず上半身を一気に回転させるとともに、その急激な重心移動を利用して、右腕を鋭くしならせ、その硬く皮の張った3本の指先から、重さ約5オンスのボールをリリースした。

初速約146キロで放たれ、わずかに重力の影響を受けつつもほぼ一直線に飛翔する硬球を、18.44メートル先の左バッターボックスで待ち構えた打者は強振で捉えた。彼の握るバットのやや根元付近に、彼の予測よりわずかに0.05秒ほど早く衝突したボールは、鈍い打撃音の波紋をグラウンドに残して緩やかな放物線を描き、右翼内野席に吸い込まれた。

「これはファウルボール」実況アナウンサーが短く叫ぶ。

やれやれーー博満は、画面から目を離して首を振った。まったくひどい打ち方だ。トップの位置が浅さすぎるために、その後の動作すべてがワンテンポ早くなり、インパクトの瞬間には、彼の上体はまるで無防備な形で投手に向かって開ききっていた。おまけに踏み込んだ右足はまるで棒のように伸びきって硬い。

 「今日の剛田投手、ご覧になっていかがでしょうか」アナウンサーが解説者に振った。

「ええ、腕が振り切れてますしね、それでストレートが走ってますから。前回の登板の時よりか、いいんじゃないですか」

ーーふん。これで解説が務まるんだからいい加減なもんだーー博満は思う。確かに腕は振れている。最近の投手にしては、下半身もそれなりに使えている。しかし決定的な問題は、彼の右手首・肘・肩それぞれの高さだ。投げる本人は意外なほどに気がつかないものだが、この3点の相対位置が不適切ならば、投手の肘、肩には何倍もの負担がかかることになる。

「この投げ方じゃ2年で壊れるよ」博満は誰に言うとでもなくつぶやいた。

最近では誰もそういうことを教えないのだろうか。

マウンドの使い方だって実に危なっかしい。あれはただ高いところからボールを放るための丘ではない。これでは彼は膝も壊してしまうだろう。

最近では誰もそういうことを教えないのだろうか。

 

昔は違った。

 

1979年、25歳の博満がロッテオリオンズに入団し、中日に移籍するまでの8年間、それは野球がまだ手で触れることのできるような実体として存在する時代だったーーわかりやすく言えば、王、長嶋、張本、野村……そのような先達が残していった「野球」の香りがまだ球場のグラウンドに、ベンチに、ロッカールームにーーそして内野スタンド裏の便所にさえーー薄く漂っていたのだ。あの頃幾度となく対戦した西武の東尾修ーーあれにはしょっちゅうぶつけられたがーー、彼のマウンドの扱いは実に見事だった。それから阪急の山田久志、チームメイトであり大先輩の村田兆治……。皆マウンドというものを熟知していた。そして壊れない投手だった。そんな彼らは、皆しつこいほど時間をかけてマウンドの土をならしていたものだった。

それは打者である博満も同じだった。現役時代の博満は、打席に入るといつも同じ準備を行った。まず真っ先にやるのは、バッターボックスを示す、石灰で引かれた長方形の白線の端をスパイクでかき消すことだ。

博満は、バッターボックスとホームベースの置かれた直径26フィートの円形の中で、自分がどこに立つのかを極めて厳密に決め、細心の注意を払って実行した。それが狂えば、後に起こる事のすべてが狂ってしまうのだ。

そして博満は、白線を引くグラウンド係を絶対に信用しなかった。信じるのは、長年かけて自らの大脳後頭葉・視覚連合野に焼き付けてきた、各球場のバックスクリーン、そして投手が立つマウンドのピッチャープレートと自らの間の距離感覚だった。本拠地の川崎球場近鉄藤井寺球場西武球場、阪急西宮スタジアム大阪球場……そして後楽園球場。どの球場のそれも、博満は寝床の中で目をつぶってさえはっきりとイメージできた。その精密な感覚を狂わせかねない目障りな線ーーどれくらいの正確さで引かれたかもわからぬ線ーーは、さっさと消してしまうのだ。

ここからが本番だ。博満はバックスクリーンを見つめながら、脳裏のイメージと、網膜から送られる画像がぴったり重なる位置を探る。長辺約183センチのバッターボックス、その最後部のある一点が彼の定位置なのだ。そして、ここという場所を探り当てると、博満は投手達がマウンドでそうするのと全く同じように、その地面の土をスパイクでならしはじめる。彼の前を打った打者がつけた穴を綺麗に埋め、もう一度足場を築かなくてはならないのだ。前打者が下手な選手であればあるほど、掘り返された穴は不細工で、元に戻すのに骨が折れた。だから博満は、アンパイアが何度注意しようが、年上の捕手が大きな舌打ちをしようが構わず、熱心に打席の土を掘り、埋め、そして固め続けた。それこそが「野球」であり、また「野球」の世界で生き残るために欠かさざる営みなのだ。引退後にーー滅多にないことだがーー気まぐれで自宅のキッチンに立ったとき、どうしても気になり、スリッパで足元のフローリングを何度もこすったときには、さすがの信子も呆れていた。

 

……。」

回想の世界から博満が我に帰ると、77インチの液晶画面が映し出すゲームは、すでにイニングが代わっていた。イニングが代わっても、行われている事は変わり映えしなかった。まるで棒きれでも扱うようにバットが振られ、石つぶてのように生気を失ったボールが飛んだ。選手達は無邪気にそれを追い、走り回っていた。解説者はそんなものにしきりに理屈をつけては褒め、あるいは注文をつけていた。

博満はそれを聞きながら思った。ーーいよいよ「野球」の話ができる人間はあまり残っていない。博満は中日ドラゴンズでプレーしていたころ、同僚の愛甲猛宇野勝と、夜中まで打撃や野球について語り明かしたものだったーーそう宇野、あいつの遊撃守備は一級品だった。一塁を守っていた博満は、彼の送球を何回受けたかわからないほどだが、後にも先にも、あいつ以上に上品な球を送ってくる野手はいなかった。奴は俺より少し若かったが「野球」を知っていたな。

 

それが一体、どうしてこうなってしまったのだろう。

 

つづく

 ※本作はフィクションであり、登場する人物・組織等は実在のものと一切関係がありません。

第1章はこちら 

tomotaroohtako.hatenablog.com

 

 

参考文献(うろ覚え)

落合博満落合博満の超野球学 バッティングの理屈」ベースボール・マガジン社

落合信子「悪妻だから夫はのびる 男を奮い立たせる法」カッパ・ホームス

本格野球小説 Me And Mr.OCHIAI その1

Chapter1 トリプルクラウンの予言

 

「手が先だって言ってんの。そもそも手が出なきゃ、バットが球に当たるわけないだろ。手が出りゃ腰はあとから付いて来んだよ」落合博満は、その日23回目のまったく同じセリフを僕に発した。「お前のはこうじゃん」

トレードマークの長いノックバットを使い、僕のフォームを正確に、かつ滑稽に再現しながら、落合は言った。


「すみません、僕って手より先に口が出るタイプでして」僕は、バットを置いてそう言い訳した。疲労と退屈と不満が僕を支配し、子供の頃からの癖そのままに口が勝手に動き始めた。「いえ、まあ、その、それは冗談としてですね、やっぱり手が先なんて無理ですよ。僕は昔から体のカベを作れ、手は最後だーーこう言われてきたんです。小学校の亀戸ファイターズの頃から、そう言われてきたんです。だから、どうしたってまず腰が回って、肩、最後に手ですよ。さもなきゃ上体が前に突っ込んじゃいます」ここまで一気に喋り、僕は息をついた。

「はあ」落合はいつもの通り、地面方向右60度の角度に向かって、諦めたような、呆れたようなため息を吐いた。「いいか、1回しか言わないからよく聞け」そう言うと落合は、頭を上げ、まっすぐ僕を見据えてこう続けた。

「お前は明日の試合、第2打席でホームランを打つ。カウント2エンド1からの4球目。球種はチェンジアップ。外角高めのストライクゾーンに甘く入る。お前はそれをスイングする。右方向に流した打球が、浜風に乗ってライトスタンドの前席に入る」
「はい?」
「覚えただろ。じゃあもう今日はいいよ。風呂入って寝ろ」

 

それだけ言い残すと、落合はトレードマークの長いノックバットを手に下げ、練習場の金網の出口へと歩いていった。そのスタジアムジャンパーの背中に描かれた竜が、遠ざかりながら僕をせせら笑うように見ていた。

 

つづく

【散文】大根、中央線、夕日、鎌倉、そして大根

大根、中央線、夕日、鎌倉、そして大根

コンチクショーって思ったらさあ、大根抜けよ大根!

あのなあ、お前俺が何年中央線乗ってると思ってんだ? 14年だぞ、14年。赤ん坊が立派にたわけた口きくガキになる年数だよ。それを毎日2回、1年に264日で1037回だぞ? それでお前よ、聞けば実家に帰ったって、畑の向こうに落ちる真っ赤な夕日見て涙の1つも出ねえっていうじゃねえか!?まったく世も末だよ。

俺なんざ人間が素朴だから、おととし鎌倉の海岸で拾った千円札、交番まで届けたってのによ。忘れもしない、神奈川県警鎌倉署長谷交番だよ。それで、そこの巡査殿がなんて言ったと思う?

「今年の紅白、石川さゆりは何歌いますかねえ?」だとよ。このやろう、人を食うのも大概にしろってんだ。俺は、さあな、110番かけて聞いてみなって言ってやったね。

それで俺は、交番を出るとタバコが吸いたくなったんで、また海岸に戻ったんだ。だけど、俺は生まれてこのかたタバコなんて吸ったことないって思い出してね、途方に暮れてたら、波打ち際に大根が3本生えてやんの。ウソじゃねえよ、俺はこの……ほら、お前見てみろよ、俺のこのまん丸の眼をよ。このデコ助が。……そう、このまん丸の眼でしっかり見たんだ。それで、俺は靴下とズボンを脱ぎ捨てて走ったね。それで力の限りその大根を抜いたんだ。そりゃエライ大根でね、腰は抜けそうだし、まん丸の眼からはこれまでないってくらい塩辛い涙が溢れて、なんだか俺は俺じゃなくなっちまったみたいだと思ったよ。

どうだい、俺の話は遠回りしたようでも、ちゃーんと元に戻ってくるんだよ。おい、そこの坊や、感心してねえでとっとと仕事しな。