【短編小説】馬喰横山さんの思い出

 小学生のとき、同じクラスに馬喰横山さんという女の子がいた。「バクロヨコヤマ」と読む。馬喰横山さんは背が高くて、ピアノを習っていて、少し栗色がかった髪の毛をいつもおさげにしていた。

 

 3年生のとき、僕と馬喰横山さんは隣の席になった。

 

 僕は身の回りの整理整頓がまったくできない子供だった。ある日先生がしびれを切らして、放課後に机とロッカーを整理するよう僕に命じた。
「悪いけど、馬喰横山さん手伝ってあげてくれる?」と先生は言った。
僕はとても恥ずかしかったけど、馬喰横山さんは「はい」と返事をした。

 

 その日の「帰りの会」が終わると、僕と馬喰横山さんは片付けに取りかかった。まずは机からだ。僕は机から、古いプリントやなにかがグシャグシャと詰まっている道具箱を引き出した。その拍子に、道具箱の奥に大切にしまいこんでいた、給食のマーブルパンを丸めたボールが転がり出てきた。

 

「ワタナベくん、それはなあに?」と馬喰横山さんは尋ねた。

 

 僕は、それまでマーブルパンを丸めたボールをコレクションすることに何の疑問も感じていなかった。だけど、馬喰横山さんの「それはなあに?」という言葉は、僕の心を波紋が広がるように震わせた。僕はみるみる顔が熱くなるのを感じた。

 

 僕が口ごもっていると、馬喰横山さんは、
「捨てた方がいいよ。虫が寄ってきちゃうから」と静かに言った。
「うん」
僕はそそくさとゴミ箱にそれを捨てに行った。
 それからおそらく小1時間くらい、僕は馬喰横山さんと一緒に机とロッカーを片付けた。馬喰横山さんの手際の良さは僕にとって驚くべきものだった。僕は自分の手を動かすのも忘れ、馬喰横山さんが真剣な表情で床の上に広げた僕の荷物を吟味し、白くて柔らかそうな両手をせっせと動かしてそれを整理していくのを眺めていた。
 片付けの終わったロッカーの奥からは、クラスで長らく行方不明になっていた給食衣の袋も発見され、先生を呆れさせた。

 

 僕は忘れ物もしょっちゅうした。教科書、三角定規、体操着、リコーダー、その他。
 教科書を忘れた場合は、隣の席の子に見せてもらうルールだった。そのとき、たいてい男子も女子も、恥ずかしがって机を極力近づかないようにする。だけど馬喰横山さんは、いつでもぴったり机をくっつけて、僕と馬喰横山さんの真ん中に教科書が来るようにした。

 ――馬喰横山さんというのは、そういう女の子だった。

 

 馬喰横山早織というのが彼女のフルネームだった。男子は「バクロヨコヤマさん」と呼び(なぜか呼び捨てにする者はいなかった)、女子はだいたい「サオリちゃん」と呼んでいた。そして彼女を、その珍しい苗字のことでからかう生徒はいなかった。
 馬喰横山さんは、決して勉強や読書ばかりしているというタイプの女の子ではなかったけど、成績はいつもよかった。友達づきあいに関しては、休み時間になると、彼女の机の周りにはいつも何人かの女子が取り巻いていたけど、馬喰横山さんが本当に一緒にいるのを好んだのは、同性の比較的静かな子達のようだった。
 今でも僕にとって印象深いのは、その中には――この年頃の人間関係ではよくあるように、それは容姿や言動に関するひどく些細な理由から――他の女子からつまはじきにされていた子がいたのだけど、馬喰横山さんはそんなことは気にしなかったし、その子と付き合うことで馬喰横山さんのことを悪く言う者は誰もいなかったことだ。

 

 ――馬喰横山さんというのは、そういう女の子だったのだ。

 

**

 

 僕は忘れ物ばかりして、先生によく怒られていた子供だったけど、漫画を描くのが得意で、口も達者だった。おかげでクラスの中では良くも悪くも目立つ存在だった。クラスの学級委員投票では毎回男子は僕、女子は馬喰横山さんが選ばれた。
 
 放課後、僕と馬喰横山さんは学級委員の仕事でよく2人一緒に教室に残った。クラス通信の原稿を書いたり、学級会の準備をしたりしながら、僕らはよく雑談をした。僕がクラスの連中や、先生たちのことを誇張した調子で面白おかしく話すと、馬喰横山さんは、いつも楽しそうに笑った。
「ワタナベくんって話すの上手ね。うらやましいわ」と馬喰横山さんは何度か言ってくれた。

 どうやら、馬喰横山さんの家族や友人の中には、僕のような話し方や物事の捉え方をする人間はいないようだった。それがわかると、僕は調子に乗って、ときには話をでっちあげたり、尾ひれをつけたりさえして、馬喰横山さんを笑わせることに熱中した。

 

**

 

 ある日、先生が馬喰横山さんに、
馬喰横山さん、あなたの苗字はとても珍しいけれど、ご両親から由来を聞いたことはあるのかしら」と聞いた。先生も、馬喰横山さんがそういう質問をして気を悪くするようなタイプではないことをよくわかっていたのだ。
「はい、お父さんに聞いたんですが、昔、馬や牛を売り買いする人のことを博労(バクロウ)と呼んでいて、それに関係している苗字らしいです。『馬喰』という漢字は当て字のようなもので、馬を食べる習慣とは関係がないそうです」
これまでも何回も同じことを答えているらしく、彼女の説明はよどみないものだった。先生は感心して頷いた。
「馬って食べれるの?」隣りの席の僕は驚いて聞いた。
「そうよ」と馬喰横山さんは笑った。「馬刺しっていって、馬の刺身があるのよ」
僕はますます驚いた。僕は、テレビの競馬中継で見るようなサラブレッド馬を、大人が数人がかりで捕まえて抑え込み、刺身にする光景を思い浮かべた。
「食べたことある?」
「ええ、美味しいわよ」
僕は、目の前でいつものようにニコニコと微笑んでいる馬喰横山さんが、馬を食べたことがあるなんて信じられなくて、固まったように黙り込んでしまった。先生は、ほほほと笑った。

 

**

 

 5年生になるときのクラス替えで、僕と馬喰横山さんは別のクラスになった。

 

 馬喰横山さんの新しいクラスの担任は、ベテランの男性教師で、非常に管理的な教育をすることで知られていた。彼のクラスでは、生徒同士は呼び捨てはおろか、あだ名で呼び合うことすら禁止され、男子には「君」、女子には「さん」をつけて呼ぶことが徹底された。朝と帰りの会、それから給食を食べる前後には、クラス全員に、標語のようなものを声を揃えて読み上げさせた。反抗的な態度を取る生徒には、容赦のない怒声を浴びせ、執拗に自己批判を要求し、自分は勝てない相手なのだと悟らせるまでそれを続けた。一方で、運動会や学芸会といった行事になると、彼は叱咤激励でクラスを鼓舞し、皆が力を合わせることの素晴らしさを、感動的な調子で力説した。おかげで彼のクラスは半年もすると、よく訓練された優秀な軍隊のように統率され、彼の下に一体となった。僕が知る限りいじめもなかったし、手に負えない問題児として知られた生徒ですら、すっかり大人しくなった。

 

 ともかく、クラス替えによって、僕と馬喰横山さんが親しく話す機会は急速に失われてしまった。もちろん、同じ学校の同じ学年にいるのだから、校内ですれ違うことは何度もあったけれど、軽く挨拶を交わす程度だった。まだ小学生の異性同士なら、それが当たり前だっただろう。

 

 6年生の時、僕と馬喰横山さんは委員会活動というもので一緒になった。5年生以上の生徒はいくつかある委員会に所属し、学校全体の生活や活動に関わる決まりだった。僕と馬喰横山さんは、たまたまそれぞれのクラスの図書委員になったのだ。

 

 図書室で久しぶりに僕の隣に座った馬喰横山さんは、ますます背が伸び、全体的な体つきも大人の女性のそれに近づいて(僕自身も声変わりの時期を迎えていた)、おまけに眼鏡をかけるようになっていた。おさげの髪型だけが変わらなかった。とにかく、僕は2年ぶりに馬喰横山さんと話す機会を得た。

 

 僕らはお互いの近況について話した。話の節々から、馬喰横山さんは彼女のクラスメイト達と同様か、それ以上に例の担任教師に心酔していることがわかった。僕は何故かしら、それに対して反感なようなものを覚えた。僕はその教師のことをどうしても好きになれなかった。それは僕だけではなかった。彼のクラスの生徒以外、ほとんどの子供たちは、口には出さなくとも彼のことを恐れ、忌避していた。だから、僕は馬喰横山さんに少しがっかりしたといってもいい。僕は以前のように、自分の担任や友人のことをおどけた調子で話した。馬喰横山さんは僕の話を聞きながらニコニコと微笑んでいたけれど、以前のようにたくさん笑わせることはできなかった。僕はそれにまた少し失望したけれど、時間の経過と環境の変化によって、彼女も僕も変わったのだと理解することした。

 

 それからまた季節が順繰りにやってきて、僕たちは小学校を卒業した。卒業文集の「将来の夢」には、僕は「まんが家」と書き、馬喰横山さんは「ピアノの先生」と書いていた。

 

****

 

 僕は25歳になった。
 ーー25歳。リアリティがない数字だった。20歳を過ぎてからというもの、年齢を重ねるというイベントは僕にとって年々無機質なものになっていき、9歳から10歳になるときに、あるいは17歳から18歳になるときに感じられた意味性はもはやほとんど失われていた。22歳と5ヶ月で大学を出た後、僕は雑誌やPR誌を作る編集プロダクションに就職し、今年で3年目になる。


 夏からの数ヶ月というもの、毎日残業ばかりしていたおかげで、僕は季節の変わり目を意識するどころか、自分の誕生日が来ることすら忘れていた。最初から嫌な感じがしていた今回の企画は予想通り、途中でスポンサーからなんども横やりが入り、ライターが音をあげ、版元からは日替わりで混乱した指示が降りてきた。そして数日ほど前に僕は、この企画はもはや後戻りも前進もできないほど破綻しており、もはや誰が何をしても救える可能性はないと結論づけた。3年も同じような仕事をしていれば、だいたいそういうのは匂いでわかるようになるものなのだ。遠からず企画は凍結されるだろう。そうなれば僕ら下請けは撤退するだけだ。

 

 そういうわけでこの数週間を、僕らは撤退が決定されるまでのエクスキューズと割り切って働いていた。消化試合のようなものだ。壁にかかった時計は23時を指そうとしていた。僕の隣のデスクでは、2年先輩の馬場さんがあまりやる気もなさそうにパソコンのモニタを眺めている。
 僕はパソコンから目を離し、バリバリになった首をさすりながらなんとなくスマホを手に取った。Facebookに、何人かの友人から「誕生日おめでとう」というメッセージが来ていた。それを馬場さんに話すと、
「へえ、おめでとう。じゃあ今日はもう仕事はやめね」といって、右手に持っていたボールペンをデスクの上に放り出した。
「いくつになったの?」
「25です」
「ふーん」
馬場さんはそれから両手を組んで伸びをすると、顔だけこちらに向けて「ワタナベ君ってどんな子供だったの」聞いた。
「そうですね……」僕は小学校低学年のころから思い出して、ぽつぽつと話し始めた。1人っ子かつ、両親は共働きだったので、家でよく1人遊びをしていたこと。ドッジボールが嫌いだったこと……。そこで僕は突如、思い出したのだ。
「馬場さん、馬刺しって食べたことあります?」
「は?」
「馬刺しです。馬の刺身」
「馬刺しくらい食べたことあるわよ。どうしたの急に?」
「馬刺しみたいな名前の女の子がいたんです。小学校のときに」

 

**

 

 僕が話し終えると「それにしても変わった苗字ねえ。馬場ならいくらでもいるけれど」と馬場さんは言った。「それで、その馬喰横山さんは今どうしてるのかしら」
「わかりませんね。馬喰横山さんはたしか中学受験をして、私立の中学に進学したんじゃなかったかな。僕は僕で、卒業と同時に引っ越しをして別の街の公立中学に進んだんで、小学校の頃の同級生とはそれっきりになっちゃったんですよ。だから情報は全然入ってこないんです」
「ふーん」と馬場さんは言うと、細い指で握ったボールペンの先で、コツコツと机を叩いた。そしてしばらくして「Facebookで探してみれば?」と言った。

 

 僕は考えた。僕の頭の中の馬喰横山さんは10歳、あるいは12歳の少女だった。その頃から現在まで、時間はたしかに連続しているはずなのだけど、僕はいまや全く違う世界に来てしまったように感じる。そして、今の僕と馬喰横山さんもまた、おそらくそれ以上にそれぞれまったく違う世界に生きている。そのことは僕を躊躇させた。果たして僕は今の馬喰横山さんについて、何かを知るべきなのだろうか?
 
 だけど結局、僕はやることにした。まずは漢字、それからローマ字で彼女の名前を検索した。だけど彼女らしきアカウントはヒットしなかった。
「だめだ。見つからないですね」
「結婚して苗字が変わってるんじゃない?」と馬場さんは言った。
 結婚。その可能性はあった。なにしろ僕らはもう25歳になっているのだ。僕にとってはまったく無縁に感じられるイベントだけど、していてもまったくおかしくない年齢だ。
「でも、そしたら探しようがないですね。『早織』さんなんて、あまりにありふれてますから」
 馬場さんは呆れた顔をして、「ワタナベ君ね、あなた編集者なんだから、もう少し粘り強くものを調べる癖つけなさい。直接探せなくても、彼女と親しかった人のアカウントが見つかれば、友達リストの中から割り出せるかもしれないじゃない」と言った。
 なるほど。しかし、当時馬喰横山さんと仲が良かった女の子たちは、総じておとなしいタイプで、どちらかというと大人になってもFacebookのようなものは使わなそうだった。僕はあまり期待をせずに、とりあえず当時の同級生で一番交友が広そうな奴のアカウントを見つけ、そこからだんだん馬喰横山さんの周辺に近づいていくことにした。

 

「友達」から「友達」へ。5、6人を辿っていった。ある同級生は公務員になっており、ある同級生は2児の親になっていた。またある同級生はカンボジアで暮らしていた。いろいろな人生がある。そして、僕はようやく馬喰横山さんを見つけ出した。
 
**

 

 十数年という時間を経て、彼女は名前が変わり、プロフィール写真に写っている姿は、髪型や、目元、さらに顔の輪郭さえ変わっていたけれど、いろいろなパーツが総合して与える面影は間違いなく、あの馬喰横山さんそのものだった。名前とプロフィール写真以外は非公開だった。僕は心臓が波打つのを感じながら、しばらくその写真を見ていた。馬場さんも椅子から身を乗り出して僕のスマートフォンを覗き込んでいた。

 

「谷口早織」というのが彼女の今の名前だった。
ーー谷口早織。
僕はもう一度写真を見た。確かにそこに写っているのは彼女だった。だけど「谷口早織」というのは……。

 

「やっぱり苗字が変わってたのね」と馬場さんが言う。
「ええ……」
「どうしたの? ショック?」と馬場さんは、からかうように言った。僕は笑って、
「いや、そうじゃないんです。でも、谷口早織というのは、なんだか……ちょっと……」
「そりゃ女の人は結婚すればみんな苗字が変わるものよ。私だってまったく抵抗がないわけじゃないし、よくよく考えれば不思議なことな気もするけど、まあ世間一般的にいえば大したことでもないでしょう?」
 それはもちろんわかる。でもやっぱり、馬喰横山さんは馬喰横山さんなのだ。馬喰横山さんから馬喰横山さんを取ったら、それはもう馬喰横山さんじゃないんじゃないか。僕は混乱していた。隣で馬場さんがさらに何か言ってるようだったが、頭に入ってこなかった。

 

「ねえ」
「……」
「ねえ」
「はい」
「ちょっと、コーヒー飲む?」
「あ、すみません」

 

 馬場さんは給湯室で2人分のドリップコーヒーを淹れて戻って来た。僕はコーヒーを飲みながら馬場さんに聞いた。
「馬場さんは……その、失礼ですけど……苗字のことで苛められたりはしませんでした?」
「そりゃ、確かにババアとか男子に言われて嫌なこともあったわよ。……でもそんなのせいぜい小学校までよ」馬場さんは青いマグカップをスプーンでかき混ぜながら言った。
「ワタナベくんは馬喰横山さんのこと、好きだったんじゃないの?」
僕は少し考えてみた。
馬喰横山さんとしゃべるのはとても楽しかったです。馬喰横山さんは僕のおしゃべりを褒めてくれたけど、馬喰横山さんの話も面白いし、聞き方もうまいし……説明するのが難しいけれど、他の子供と話しているのとは何か違う経験ができた。だけど彼女は、そうだな、なんだかとても大人っぽくって、好きになるっていうか……やっぱりそういう対象じゃなかったんです」
「ふーん」馬場さんはコーヒーを飲んだ。時計を見るとそろそろ日付が変わりそうだった。
「友達申請してみたら?」
「だけど彼女にはもう旦那さんがいるんですよ」
「別にいいじゃない? 考えすぎよ」と馬場さんは笑った。
「うーん」僕はスマートフォンを握りしめながら考えた。もし馬喰横山さんーー今は谷口さんーーと「友達」になったとして、何か話すべきことがあるだろうか。そもそも僕は今の彼女と話したいんだろうか。

 

「そろそろ帰るか」と馬場さんは言って、また思いっきり両腕を上げて伸びをした。僕は頷いて、カバンを持ち、椅子にかけてあった上着を羽織った。

 

 僕はそれから何日か、時間があると馬喰横山さんのことを思い出した。それで僕は、Googleで彼女の名前、ーー谷口早織を検索した。こうなるとちょっとストーカーみたいだ、そう思いながらも僕はそれきりにできなかった。
 「谷口早織」という名前はあまりにもありふれていて、それらしき情報を探し出すのは簡単ではなかった。だけど僕は編集者なので、粘り強く手がかりを探すことにした。そして僕は見つけた。
 馬喰横山さんは、小学校の教員になっていた。僕が彼女を見つけたのは、都内のある小学校の学校通信のPDFの中だった。そこには無味乾燥な明朝体で、

 

「3年1組担任:谷口早織(馬喰横山早織教諭は、婚姻のため谷口に改姓しました)」

 

とあった。日付を見ると、それは1年前の4月に発行されたものだった。そこには、他の先生と同じように谷口先生の簡単な新年度の挨拶が載っていた。それはまったく凡庸で退屈な文章だった。こういう場合に使える文例集からそのまま拝借してきたのではないかと思えるほど退屈だった。もちろん、僕が覚えている馬喰横山さんの話し方や何かをそこから感じ取ることはまったく不可能だった。僕はパソコンを閉じ、それから2度と彼女の名前を検索することも、Facebookのアカウントを見ることもしなかった。

 

***

 

 またいくつかの季節が繰り返された。僕は30歳になった。


 僕と馬場さんはおととしの夏に結婚した。それから残業の多かった会社を2人揃って辞め、フリーランスになった。いくぶん収入は減ったが、子供がいない夫婦2人が食べていけるだけの金は稼げている。
 僕らは平日は仕事仲間として、(あえて)それぞれ別室でせっせとゲラに赤字を入れたり、経費を計算したりし、休日になると夫婦としてデートをする。彼女は水棲生物が好きなので、僕らはよく上野動物園の両性爬虫類館に出かける。
「子供ができたら、ここにいる生き物にちなんだ名前をつけるの」と彼女は言う。
いったい、この中のどんな生物が人間の子供の名前になりうるのだろう? 僕はド派手なカラーリングのアイゾメヤドクガエルが入ったガラスケースを眺めながら考えたが、そのことは特に口にしなかった。
「子供は欲しい?」と僕は聞いた。
彼女は僕の少し前を歩きながら、いつものとおり「わからない」と答えた。

 

 結婚記念日の日曜日、僕らは映画を見に行き、水族館に行き、デパートを冷やかし、ホテルのレストランで食事をして、クタクタになって帰ってきた。リビングのテーブルで缶ビールを飲み、そのまま2人で寝室に行き、倒れるようにベッドに横たわった。

 

 ベッドの中で彼女は聞いた。「ねえ、子供は欲しい?」
「どうかな」アパートの窓の外の道路を通り過ぎる車の音がかすかに聞こえている。
ワタナベくん・・・・・・はどんな子供だったの?」彼女は僕の頬に手をあてて聞いた。僕は自分の右手をその上に重ねた。
「1人遊びが好きだった。忘れ物が多くて、口が達者で、よく先生に怒られてた。でもなぜか学級委員にもなった」
「好きな女の子はいたの?」
僕はしばらく考えた。そして答えた。
「女の子のことはよく覚えてないんだ」
「そうなの?」
「そうなんだ」僕はそっと左腕を伸ばし、ベッドサイドの明かりを消した。

 

おわり