本格野球小説 Me And Mr.OCHIAI その3

Chapter3 タバコ屋主人の回想ーThe old man and Mr.NAGASHIMA

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tomotaroohtako.hatenablog.com

「お前は明日の試合、第2打席でホームランを打つ」
唐突な"予言”を僕に言い残して落合博満が去ってしまった後、僕は1人で黙々とグラウンドにトンボをかけ、それを終えると家路についた。日が沈みかけていた。

途中、タバコ屋の前で足を止め、小さなガラス窓に向かって怒鳴った。
「セッター7ミリ」
ガラスの向こうで首をもたげ、死んでいるかのように見えた老人がビクリと顔を上げた。
「はいはい」
としゃがれ声で答えた老人は、難儀そうに体をよじり、背後の棚に手を伸ばす。たっぷり1分くらいかかってセブンスターの7ミリが出てきた。ガラス越しに千円札を受け取りながら老人が聞いた。
「今日も『野球』ですか?」
「ああ。『野球』だよ」
と僕は答えた。老人は満足げに微笑み、何度も頷いた。
「私はね、後楽園球場で長嶋の……長嶋の引退試合を見たんですよ。あれは私が三十五のときだった」
老人はまるで他の者に聞かれてはならない打ち明け話のような調子で話し始めた。3代続けて名古屋生まれの名古屋育ち、かつ筋金入りの長嶋茂雄ファンという過酷な運命を背負い長い人生を送ってきたこの老人は、中学まで東京で育った僕を密かな同志と見なしているらしいのだ。
「こう、長嶋がネクストサークルに立つでしょう。するともうスタンドが海鳴りみたいにどよめくんですな。異様な雰囲気っていうのはああいうのを言うんでしょうねえ」
1974年、すなわち昭和49年10月14日、後楽園球場で行われた長嶋茂雄引退試合の折、35歳のタバコ屋主人(当時は勤め人をしていた)は、運よく舞い込んだ親戚の結婚式だかなんだかという用事にかこつけ上京を果たしたのであった。しかも、その試合の対戦相手は他でもない、我らが中日ドラゴンズだった。こうして彼は「あくまでドラゴンズ戦の観戦」という免罪符まで手に入れ、長嶋現役最後の姿を見届けることに成功したのであった……という、これまで30回は聞かされたことのある老人の昔語りが始まったので、僕は釣り銭とセブンスターの箱を素早く受け取って失礼した。

アパートに着くと僕はテレビをつけ、衛星放送のナイター中継にチャンネルを合わせた。試合は序盤戦だった。

背番号をこちらに向け、マウンドに立っている先発投手は、高卒3年目の選手で今季の飛躍を期待する声が高かった。ワンアウト・ランナーなし。カウントノー・ワン。マウンド上の彼は、手にしていたロジンバックを静かに置くと、ワインド・アップの投球動作に入った。やや小さめな振りかぶりの動作から、左足をゆっくり持ち上げる。重心を徐々に後ろに移すと同時にボールを持った右腕をセンターへ、グローブをはめた左手を本塁に向かって広げ、彼は両翼を広げた鶴のような格好になる。次の瞬間、彼は上半身を一気に回転させるとともに、急激な重心移動を利用して右腕を鋭くしならせると、硬く皮の張った3本の指先から重さ約5オンスのボールをリリースした。

初速約146キロで放たれ、わずかに重力の影響を受けつつもほぼ一直線に飛翔する硬球を、18.44メートル先の左バッターボックスで待ち構えた打者は強振で捉えた。バットのやや根元付近に、打者の狙いより0.05秒ほど早く衝突したボールは鈍い衝突音を立てると、緩やかな放物線を描き、右翼内野席に吸い込まれた。

「これはファウル」実況アナウンサーが短く叫ぶ。

「今日の■■投手、ご覧になっていかがでしょうか」アナウンサーが解説者に振った。
「ええ、腕が振り切れてますしね、それでストレートが走ってますから。前回の登板の時よりか、いいんじゃないですか」

ーーふん、まったくこれで解説者が務まるんだからいい商売だな、と僕は思う。それくらい僕だって、たとえ試合を見なくたって適当にでっちあげられると思う。カウントはワン・エンド・ワン。次はこの投手が得意とする、ストライクゾーンからボールに逃げるシュートだろう。
「振りかぶって、第3球」実況アナウンサーが短く叫ぶ。
若き右腕が放ったボールは、僕の予想通りストライクの軌道でホームベースに向かっていった。しかしそこから外に……曲がらなかった。失投だ。時速140キロ強のは、しかしそれ以上の何物でもない、つまり棒球だった。
「打球は高く上がったーっ!……いや、しかしこれは伸びません」
僕は思わずずっこけた。
「いやあ、投手は助かりましたね」と実況アナウンサー。
「危ない球でしたけどね、打ち損じですね」と解説者。
絶好球を打ち損ねた打者は、さも難しい勝負であったといった風に顔をしかめてオーロラビジョンに映し出されるリプレイを見届けると、首を捻りながらベンチに戻っていった。ーー明日は試合だというのに、まったく嫌なものを見てしまった。僕はリモコンを手に取りテレビを消した。そう、明日は試合なのだ。さっさと夕食を済ませ早く寝なくては。

つづく

 ※本作はフィクションであり、登場する人物・組織等は実在のものと一切関係がありません。