ドラえもんの「夢」と尾辻克彦(赤瀬川原平)「父が消えた」と

僕はドラえもんという作品が好きだ。

そしてドラえもんは夢のある作品だ、と皆が言う。

この「夢」についてだが、「どこでもドア」や「タイムマシン」といった到底実現不可能な道具には、わかりやすい「夢」はある、かもしれない。

しかし、僕がよりグッと心を掴まれるのは、作中でしばしば描かれる「家の屋根の上で寝そべる」だとか「学校の裏山」とか、あるいは「空き地の土管の上で談笑する」といった、

「いかにもできそうなんだけど、できない」類のアクティビティの描写である。

付け加えるなら、「押入れで眠る」というのも実現のハードルはだいぶ低いけど、子供にとっては夢みるような「アクティビティ」であることに異論はないだろう。

こうした「屋根の上で寝る」レベルの夢と、「どこでもドア」レベルの夢が共鳴するからこそ、ドラえもんは凡百の「夢のある」作品を超えた豊かな世界観を作り得ているのだと僕は信じる。

話は少々迂回するが、尾辻克彦赤瀬川源平)は小説「父が消えた」でこう書いている。

「いや、旅行というのはただ動けばいいんだなとおもって」

「動く」

「動くといってもね、いつもと反対側に動く。いつもと反対に動けば旅行ができる」

「うわ、それ、教訓みたいですね」

「うーん、教訓というか、でもこれ、やっぱり意外と教訓だよ」

「反対運動ですね」

「そうだ、反対運動だねこれは。反対運動は旅行だね。たとえばね、えーと、たとえばね、自分の家の便所に行くのにね、廊下を行かずに天井裏をはって行く」

〜中略〜

「そうするとあれですね、自分の寝室に窓から侵入して眠ると寝台車」

「あ、いいねえ寝台車」

「いまはやりのブルートレイン

「そうだよ、自宅で出来るブルートレイン

これは「私」が八王子の墓地に父の墓を下見するため中央線に乗った際、電車が日頃乗る東京行きとは反対向きに動きだしたことが愉しくなり、さらに

「そもそも旅行の楽しさというものは、乗り物が動くということではなかろうか」と思い当たって、同行の「馬場くん」に話しかける場面である。

この一節には単に文学的な味わいといったもの以上に、赤瀬川(尾辻)の元々持っているラディカルな思想の原理のようなものが閃いていると思う。(註)

ともあれ、家の屋根で寝そべる、押入れで眠るというのも、上引用の「自分の家の便所に行くのに、廊下を行かずに天井裏をはって行く」「自分の寝室に窓から侵入して眠る」

のと似たような、「自宅でできる旅行」であり、それは「反対運動」でもあるのではないだろうか。

F先生の凄いところは「タイムマシン」レベルの「夢」を描く際にも、「屋根で寝そべる」レベルの「夢」を組み合わせてくる、ということだ。

例えば、タケコプターで飛行する際も、多くの場面で玄関からはなく、のび太の部屋の窓から飛び立つのである。これは出入りが逆になっているだけで、

「自分の寝室に窓から侵入して眠る」のと同じことだ。タケコプターという派手な道具立てだけに頼らず、こういう細かい部分で読者を知らず知らずのうちに高揚させるF先生。

さらに言えば、なぜ玄関から出ないかといえば、もちろん1階で監視の目を光らせるママを出し抜く為である。

これはまさに「反対運動」(窓から外に出る)による「反対運動」(ママを出し抜く)ではないか。

2112年の世界には到底届かないとはいえ、原作マンガが描かれた当時からはテクノロジーが相当進歩した現在、企業がドラえもんの道具を実現するプロジェクトを立ち上げたというような話もある。

が、正直僕はそうしたものにほとんど興味が持てない。

敢えて言おう。ドラえもんを読んだ我々が行うべきことは、夢の道具を再現することではなく、屋根の上で寝そべることであり、押入れで眠ることであり、

また、反対向きの電車に乗ることであり、自分の寝室に窓から侵入することなのである。

これはもちろん比喩でもあり、比喩でなくもない。

註:

前衛芸術活動家(彼の場合、単に「家」より「活動家」とした方がしっくりくる気がする)であったはずの赤瀬川原平は、ある頃より「おもしろおじさん」(僕の大学時代の某教授の評)になってしまったわけで、「父が消えた」で芥川賞作家となった際も既に「私小説家に堕した」というような批判があったかもしれないが、この一節には確かに赤瀬川に特徴的な「前衛としてのある種の「勘」」のようなものが感じられないだろうか。