天重誠二さんの感想文「荒川修作やばい」の感想文

この文章は天重誠二さん@tenjuu99(https://twitter.com/tenjuu99)がnoteに書いた、
埼玉県立美術館「インポッシブル・アーキテクチャー-もうひとつの建築史-」展の感想文を読んだ感想文だ。
なので、まずは天重さんの文章を読んでほしい。

荒川修作やばい」https://note.mu/tenjuu99/n/n5f4deb204285

なお、重要なことだが、僕自身はこの残念ながらこの展示を観れていない(残念だ)。以下はあくまで天重さんの感想文についての感想、として読んでいただきたい。

なぜ僕がこんな文章を書いたかというと、天重さんが特に荒川修作の作品について書いていたからで、僕も以前から荒川修作という人については、よくわからないし、うさんくさいところもあると思いながら、どうしても興味をもってしまう、なによりその発言の端々から読み取れる、凡百の現代芸術家などは遠く及ばない、「革命的」ともいうべき思想の過激さと根源性に惹かれてきた。このたび天重さんが「荒川修作やばい」と書いていたので、「そうですよね」という感じで反応してしまったという次第だ。

本題である「感想文の感想」に入りたい。
さて、これは結構ややこしい…と思った。まずアフォーダンスという言葉に「本来の意味」と、後にデザイン領域で使われるようになった用法の2つがあるというところからややこしい。
(これについて、いそいそとググった結果を要約しようと思ったけど気力が尽きたので各自調べてください)
建畠晢さんの文章は引用部分の「動作を誘発する装置」だけから察するに、後者を意味している、ということでいいのだろうか。

で、(これは僕がアフォーダンスという概念について無知だからだと思うけど)建畠さんは「アフォーダンス=動作を誘発する」と定義した上で、エピナールの橋を「要請された行為の必然性に従うという拘束的な空間の体験をもたらす」もの、と対置しているのだが、僕にはこの両者の違いがいまいちピンとこない。

誘発と拘束という強度の違いということなのだろうか?確かに取っ手の付いたドアは、取っ手を手で引くか押すかして開けることを「誘発」するけど、拘束するとまでは言えない。べつに体をぶつけて開けたっていいわけだ。ところがこの橋ではそういうわけにはいかなそうだ。頭上の巨大な球を持ち上げることはできないだろうし、その上を登っていくのは危険すぎる。

ただ、それでも僕が違いがピンと来ない、というのは日常的な生活のレベルにおいて、僕らは都市空間の様々なモノの発する「アフォーダンス」によって充分「拘束されている」といえるのではないか、と思うからだ。

実際に、天重さんはこの美術館(黒川紀章の設計による「ホスピタリティのかけらもない美術館」)で疲れて座りたくなったにも関わらず、どこにも座る場所がなくて困ってしまった。そこで天重さんは、
「どうしてそこらへんに座ってしまわないのだろう?環境が「座る」というサインを出してくれなければ座ることすらできないほど、規制を内面化している」
と気づいた。規制の内面化。これはもはや拘束と言っていいのものではないだろうか。違いは物質的(物理的)な拘束か、社会的な拘束か、というところか。(社会化されていない子供や動物はこの手のアフォーダンスを無視したやり方でばかり道具や建物を使用する)

ともあれ、天重さんが問題にしている、
「「エピナールの橋がアフォーダンス的に動作を誘発する装置ではなく、要請された行為の必然性に従うという拘束的な空間の体験をもたらすもの」って、逆じゃないの?」というところについて考えてみたい。
天重さんが「逆」だと言っているのは、この橋は、建畠さんのいうような「要請された行為の必然性に(身体を)従わせる拘束的なもの」ではなくむしろ、
「橋として渡りたきゃお前の体の使いようでいくらでも橋としてのアフォーダンスを見出だしてみろ」という作品ではないか、ということだと思う。美術館に椅子がなければ、良い感じに窪んだ壁をみつけて、身体を埋めるように床に座り込んだっていい、いや、もっと違うやり方もあるかもしれない、というように。

正直、建畠さんの解釈の元になっている、荒川+ギンズの制作ノートの文章は日本語レベルで意味がわからなすぎて、また僕が実際に作品を見れていないこともあって、どちらの解釈が妥当なのかは判断が難しい。
ただ、ひとついえば荒川という人は「体の使いようでアフォーダンスを見出す」という次元よりもヤバイことを考えているように思えるのだ。例えば、岐阜にある養老天命反転地では開館当初骨折する人も続出したという。これではアフォーダンスどころではない。

荒川修作は、人間は「死なない」と言った人である。

これは裏返しに、「普通の人間」(荒川曰く、「徹底的に間違った生き方をしている」人間)としては、1度死ねば?(もしくは死にかけれてみれば?)と言っているように思えなくもない。(この橋にしたって、僕は図版を見た限りでも、単に渡りにくそう、というより、下手したら自分はここで死んでしまうんじゃないか、とような恐怖感を覚える)
荒川はまた、「建築する身体」といったように、「身体」という言葉を使う。「身体」という言葉を使った語りは現代美術ではけっこうおなじみのものである。
しかし荒川による身体への働きかけは、ある種の現代美術(をめぐるの言説)にみられる、「隠蔽されてきた我々の"身体"の存在を露出させる、再認識させる」というような(ここまで陳腐ではないにしても)、ーー言ってしまえば美術史の文脈上で優位を取り合う知的ゲームのような言説、とは全く異なる次元を志向していると思われる。

むしろ、荒川のいう身体、荒川の思想は、身体や知覚への直接的な、時には死や発狂の直前にまで迫る働きかけによって人間を再構築しようとするような、「カルト」思想のそれにすら接近しかねないもなのではないか(現にちょっと検索してみるとその様な近似性を指摘する記事はいくつか出てくる)(古谷利裕氏による以下の文章も参考に。http://www008.upp.so-net.ne.jp/wildlife/arakawa.html)。

天重さんのいうように「荒川修作やばい」、のだ。

余談ぽいことを書くと、僕は一度、三鷹の天命反転住宅を見学したことがある(見学プログラムは随時組まれていて、参加費が2千何百円かかかる)。色々雑多な感想は浮かんだのだか、その1つとして「これ、要は健康アスレチックセンターみたいなものとどれほど違うのか」というのがあった。床が足裏を刺激するような凸凹したものだったり、天井の傾き加減なんかで水平の感覚を失うような構造になっているのだけど。うーん、天命が反転するかな。という笑。ここに住んでから風邪をひかない、みたいな話も聞いたような気がするのだが(それはそれでもちろん素晴らしいことだ)、正直、これは荒川の思想がずいぶん微温化されてしまっているのではないかな、とも思ったのだった。